教科書に沿った日本のエコノミスト

 「ニューケインジアンの分析では財政政策は脇役にすぎない」と土居教授は指摘するが、これは論理的必然ではない。裁量的財政政策を必要としない時代が長く続いたせいで、財政政策を分析する必要性がこれまでなかったからだと考えられる。

 また、乗数が小さいのはニューケインジアンの特徴とはいえない。ニューケインジアンのモデルで、財政支出の拡大が現在の消費を減少させる効果が働くのは土居教授が議論する通りである(私も2月2日付の経済教室欄で少しだけ触れている)。これは、消費者が将来を見通して合理的な行動を取るという前提から導かれたもので、実物的景気循環(RBC)での帰結を引き継いでいる。しかし、この理論的帰結は現実の経験(財政支出の拡大は消費を拡大させる)と合わないので、ニューケインジアンはモデルの修正を模索している。乗数の大きさは、まず経験的に確かめるべきで、学派の違いは関係ない。

該当記事を日経で見かけたとき感じた違和感を岩本先生が指摘していました。新古典派が主流になったのは大分昔の話だが、それ以降マクロモデルで財政政策分析はずっと迷走を続けていて、まともな研究というかそれを体系だてた理論が形成されていない。あるのは財政政策の短期的効果は合理的個人によって吸収されるので薄いという20年以上前の理論。たしかに財政支出の効果が薄いことは通説になっていることは確かだが、日本での財政政策の妥当性を問う時に、新古典派の中立命題が成立することを証明した論文やニューケインズモデルが妥当であるということを示した有力な論文なんて見たことがない。それら通説を論拠に古いケインズ・モデルを(偉そうに?*1)批判する人ほど悪い意味でケインズモデルにとらわれているように感じます。

 財政出動の是非に関する意見の相違は、財政支出が賢明なものかどうかの判断で分かれると考えられる。マーフィー・シカゴ大教授は「財政出動の是非については乗数の大きさだけではなく、失業者の余暇時間の価値をどう評価するか、財政支出の価値をどう評価するか、財源となる税がどれだけ経済の効率を阻害するかの論点も重要だ」と指摘している。我が国の議論は乗数効果の大きさに関心が集中しているきらいがあるが、政府が賢明な支出をできるかどうかが米国では重要な争点になっている。
 土居教授の議論を補足すると、ニューケインジアンの重要な貢献は、経済活動にミクロ的基礎付けを与えることで、安定化政策が経済厚生をどれだけ高めるかを定量的に評価できるようにした点にある。財政政策も、その費用と便益を総合的に評価して判断すべきだという考え方がある。財政支出そのものの価値は非常に重要だ。

財政出動の効果を現実に合わせた形でモデル化されるのはいつになるのか分からないが、現段階ではそれぞれの支出の効果を別個に算出することが重要であると思う。少なくとも、古めのマクロモデルを取り出し教科書にある通りその効果はないと大衆に向けて主張するのは、GDPギャップばかりに注目している(らしい)今の日本政府と同等にミスリードになる可能性がある。