起業する文化

ビジネススクールの友人たちと話していてすごいなと思ったのは、彼らは、サマーインターン先が見つからないからといって無為に終わらないこと。複数の人から、夏休みを使って、自分の貯金をはたいて起業するという話をきいているし、法律に関する相談を持ちかけられたりもしている。状況に文句ばっかり言っていないで、とりあえず行動を起こし、自分を試してみるという姿勢。別に失敗したって、失われた出資額は授業料だと思えばいいじゃないか、別に有限責任なんだから。むしろ、そこから得られる人脈や、自分で一から全部事業をまわすファーストハンドの経験は、お客様に終わってしまいがちなサマーインターンよりもむしろ有益かもしれない。できる限りで応援したいと思う。

アメリカのビジネススクールにいる時点で起業しやすい文化にいるように思う。それはMBAで学ぶことが起業にそのまま役立つという意味ではなく、その周辺の人間が起業とはどのようなものかをよく知っているというという点において。日本ではなかなかこうはいかない(他人の芝生理論かな?)。
起業は新たに雇用を増やす手段ではあるため日本もあるいは起業支援の充実などが雇用不安を減少させる政策になるかもしれない。しかし現状のビジネス教育が追いついていない。共有体験が減っていき、ビジネスも生活も多様化していく現在の世の中では個々人がよりビジネス感覚を得ること、新たな収益モデルを構築する力が必要になるはず。

アメリカでは有限責任が明確であり日本では曖昧というのは、「日本人は議論が苦手」という話と似ている。日本では、起業した創業者が仕事の全責任を人生を賭けて負うことを期待され、銀行融資を使う場合は「事業を成功させる気概をお持ちなら個人保証できるでしょう」と代表者の個人保証を求められる。失敗した時は「失敗するような人間だった」「そういう人はもう起業しない方がいい」と人格を否定される。「日本的」なディスカッションにおいても、「その意見は反対。そんな意見を言うあなたは信用できない。他の意見も聞きたくない」と、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという状況になりがち。論理の問題と人格の問題を分離できない。「仕事は仕事として精一杯頑張るが、それによって人生全てを背負いこむわけではない」という割り切りが、起業する側にも投資する側にも共有されているところがシリコンバレーの良さの一つ。失敗は財産とみなされる。

依然、日本は失敗に対して比較的厳しい文化を持っている。「坊主憎けりゃ〜」のバランス理論は人間としてごく自然なものであり、失敗をしたから「あの人はダメだ」という発想をしてしまうのは合理性の上でも仕方ないのだが、それを社会の基盤にしてはいけない。すくなくとも国(政府)だけは失敗した人を見捨ててはいけない。そのための社会保障はちゃんと整備されているのか疑問だ。
もちろん失敗が財産になるような文化になれば一番いい。今いろいろな産業で活躍をしているビジネスマンで失敗を経験していない人は少ないだろう。その人たちの経験に基づく意見き失敗の利益について説くことが、失敗に対して寛容な社会にするために一番効果的なのではないか。