民間生命保険では、どこまでリスクを細かく分けていくべきだろうか。

この問いは結局のところ、「生命保険の金融的側面と社会保障的側面をどこでバランス取るか」という問いにほかならない。

その答えは、公的な生命保険がどの程度の役割を果たしており、それを補完する民間生命保険がどの程度の役割を果たさなければならないのか、ということに依る。

たとえば、遺族年金と健康保険(公的医療保険)のカバー率が100%に近いとしよう。遺族に対しては生活するに十分な額の年金が支払われ、医療費の自己負担はゼロ。

このような制度のもとでも、民間の生命保険は「もっと欲しい」層に向けて商品を提供することが考えられる(5億円死亡保険が欲しい、など)。この場合、民間の生命保険には社会保障の役割は相当程度薄まっているのだから、金融的側面を全面的に強調し、ひとりひとり保険料が違ってもよいと考えられる。

では、わが国では公・民の割合はどうなっているのだろう。

手元には少し古いデータしかないのだが、

・ 死亡保障: 公 4.6兆円、民 3.4兆円
・ 医療保障: 公 14.8兆円(保険医療)、民 8,200億円

となっている(2001年度。新著「生命保険のカラクリ」p.117でも引用した)。これを見るとわかるのは、死亡保障では、民が公に近い重要な役割を占めることである。これに対して医療保険は公がメインであり、民は小さく補完するに過ぎない。

とすれば、この割合を所与のものとすると、結論は明確である。死亡保障については社会保障的な側面が強いので、あまりリスク細分を進めることは望ましくない(せめて喫煙、非喫煙程度か)。

これに対して、いくらかラグジュアリー(経済的ではなく、必ずしも必要のない心理的な安心を買っているという意味で)に近い医療保障については、社会保障の側面が低いので、統計上、そして引受実務上可能な限り、リスク細分を進めるべきなのである。究極的には、一人ひとり保険料が変わってもよいと考える。

この場合、たとえば先天的に病気の人は高額の保険料を払わない限り医療保険に入れない、というアクセスが問題になるが、このような人への「リスク・所得の再分配」は、(少なくとも現状の枠組みでは)民間生保が行うことではなく、公がやるべきことなのである。